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カタチだけのセキュリティでは意味が無い

「セキュリティ」という言葉の意味も拾いものです。自分自身、そして自分を取り巻く環境を守るための枠組み、セキュリティから連想できるのは「安心」であり、「安全」であると思います。

そのような安心、安全の取り組み、「セキュリティ」を考えた際、当然「盗聴される」などということは排除すべきことであるでしょう。盗聴されること自体、プライバシーの侵害であり、外部には漏らしたくない自分の情報が、自分が知り得ない第三者に対して漏れてしまっているということは、「気味が悪い」という程度では済まないことです。セキュリティを考える上で、盗聴は排除されるべき存在です。

ですが、自宅は絶対安全であっても、自分自身が家の外に絶対出ないということは考えづらいでしょう。ずっと自宅に篭っているということはなかなか難しいものです。社会と断絶され、陽の光に当たらず過ごすということは私たちにとっては困難なことなのではないでしょうか。また、外に出るということ以外にも私たちは誰かと話して情報交換を行なっているものです。その手段はさまざまなのですが、例えば「電話」している場合、「相手」がその会話を録音していたとしたらどうでしょうか。それは「盗聴」でしょうか。電話の内容はもちろん、相手と自分だけのやりとりであると、「こちら」は考えていたとしても、相手はそのやりとりに対して「組織」として責任を持っているとしたら、企業として責任を持っているとしたら、それは相手方にとっては「共有すべき事例」のひとつになるのです。その電話でのやりとり自体がビジネス上のひとつの要素になるのです。それでも「盗聴」でしょうか。

セキュリティを考える上で大切なことは、自分のプライバシー、自分の考えを守ることではないのではないでしょうか。「話す」以上、それを受け取る人がいます。話す以上、その言葉を聞いて何かしらの影響を受ける人がいるのです。その人に対しては自分の言葉は「オープン」で、その人以外に対しては聞かせたくない。でも「声」は聴こえる範囲の人には届くものです。そのようなことを考えると、自分が気にしているセキュリティ、特に自分の言葉、発言を守るということ自体に、何の意味があるのかわからなくなってきます。

ただ記録されたくないだけで、日頃から人前でくだらないハナシをしているのに、誰も聞きたくないようなハナシを大声で繰り広げているのに、「盗聴」となると一気に構えるのです。それは「聞かれているとは思わない」から「はずかしい」だけです。

セキュリティの究極、こと「情報」に関する究極は、「別に知られてもいい」というスタンスです。聞かれて困ることは口に出さない、聞かれて自分やその他自分に関わる人に実害が生じるようなことは軽々しく口にしないことです。口に出さなければ、ふいに録音されて「残る」こともないのです。大切なことであればあるほど、それは心に留めておくべきなのかもしれません。大切なことであればあるほど、雑談の対象にするべきではないのかもしれません。ただ「守る」のではなく、「表に出さない」ということを心がければ、セキュリティなど気にする必要もないのです。それは自分自身で実践できる、盗聴に対する最良の手段でしょう。

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