何のために盗聴が存在するのか
「話す」ということは原理的なことです。人と人がコミュニケーションをとるためのもっとも原初的な行為であり、生まれてから数年で誰もが習得する方法です。
「言葉」というものはそれ自体に意味があるわけではなく、それを受け取って意味を理解し、相手が伝えたいと考えていること、相手が「知ってほしい」と考えていることの本質を受け取ることではじめて意味が出るものです。私たちの思考そのものも「言葉」で成立されており、私たちはその言葉の持つ「意味」以上に、相手が何を伝えようとしているかということを理解できるのです。言葉によって私たちは人を動かしたり、人に動かされたりするのです。
言葉は刹那的なものでありながら、それぞれ「人」の心に残るものがあります。私たちは言葉を支配しているわけではなくて、それぞれの言葉に支配されているのです。「良い」、「悪い」という言葉に倫理観は支配され、「頑張っている」、「怠けている」という言葉に日々の仕事が支配され、「好き」、「嫌い」という言葉に嗜好が支配されています。人から嫌なことを言われれば落ち込むし、人から褒められれば、讃えられれば嬉しいのです。人からインプットされる言葉、そしてそれぞれが自分の口から発する言葉によって、私たち人は相互に影響を及ぼしているのです。
「口に出す」ということは、口に出した言葉自体は、人の思考が漏れ出たものでもあります。考えていること、信念などの大切にしていることなどが、その人の言葉として現れます。それを聞いた人はその人が何を考えているのかを知り、その人がどのような人物で、その人がどのような考えを持っていて、自分にとってどのような影響を与えるのか、自分が大切にしている組織にとってどのような影響を与える人なのかを判断しようと思うのです。「言葉」からその人が「どのような人」なのかがわかるということです。つまり、その人の言葉を記録するということは、その人そのものを「記録する」ということと等しいのです。
ただ話している言葉を記録するだけで、さまざまな情報が得られるのです。「人」にフォーカスするだけでも、盗聴によってその人物がどのような人材かを確かめることすらできるのです。
盗聴されることは誰もが「嫌だ」と感じることではあります。誰もがその盗聴、その事実を知った時には「信じられない」という気持ちになるでしょう。ですが、それによって暴くことができる不正、それによって得ることができる情報は、その言葉の額面を超えたものであり、その言葉の意味以上に効力を持つものであるのは間違いありません。だから「盗聴」が存在するのです。それだけ私たちが口にしている言葉に意味があるから、盗聴がなくならないのです。盗聴の存在を考えるということは、自分たちが日頃口にしている「言葉」に関する意味を考えるということです。私たちにとって言葉とは自分たちを規定するものであり、相手と気持ちのやりとりをするものであり、相手に対して自分を伝えるもの、自分自身を表現するものなのです。そのように日頃何気なく言っていること、考えていることの大切さを加味すると、「盗聴」の意味もより深くわかるのではないでしょうか。