盗聴されても良いというスタンスも有効
どれだけ気をつけても、自分が関わる場所すべてに対して「安全」を保証することはできません。自宅は完全に調べ尽くしたとしても、それ以外の場所はそうではないかもしれません。
どこに盗聴器があるのか、どこなら余人に自分のハナシを聞かれないのか、それは実際のところわかりません。倫理的に「盗聴は悪」とされていたとしても、実際にどこに盗聴器があるのか、ないのか、だれも保証できないのです。専門家に調べてもらい、「ここは絶対に安全だ」という保証を得ない限りは、どのような場所にもリスクはあるのです。そして、そのようなリスクに気がつけた人とそうではない人がいます。リスクに気がついている人は、自分の言動に気をつけることになります。
今の時代、どのような場所で、どのような経路で、自分の大切な情報が漏れていくかわからないものです。どのような目的で人の「会話」を聴きたいのか、その目的も得体が知れないのです。ただの愉快目的なのか、それとも経済的な打撃を与えたいのか、まったくわからないのです。わからないから気味が悪い、わからないから怖いのです。ですが、いくら聞かれたとしても盗聴している相手の「期待から外れた内容」であれば、盗聴している相手はどうしようもありません。
盗聴している相手にとって、その盗聴が意味を成すのは「自分が期待している情報、内容」が聴けることです。それがその人のプライバシーなのか、企業活動に関わることなのかはわかりません。その相手次第です。ですが、それが「入手できない、聴けない」ということであれば、盗聴する価値がないのです。盗聴している意味がないのです。そのように考えると、どこに盗聴器があろうと、人に聞かれて困ることは「話さない」ということが最大の防御になります。
それは特に「職場」においてです。企業倫理を保つために、会議を録音している、電話応対を録音しているという場合もあるでしょう。それが公然であれば盗聴ではありません。自分の発言に責任をもたせるということのために、細かくログをとっている組織もあるでしょう。そのような場合、それを受け入れてその方針に従うということも必要なのです。それは「聞かれても問題ない」内容を口にするということです。
それだけではありません。どこで誰がハナシを聞いているのかわからないのです。それは盗聴ではありません。「聴こえる」ということです。そのようなリスクにも私たちは対応する必要があるのです。つまり、誰にどう聞かれてもいいように振る舞うということが大切なわけで、「聞いた人が悪い」という意識から離れるということです。聞かれて困るようなことを言わないということが大事だということです。
人間誰でもグチを言います。不満があるものです。ですが、その軽はずみな発言が人を困らせたり、組織に打撃を与えるものである場合もあります。その「言葉」が、誰かの何かを傷つけたり、誰かの何かを奪ったりすることがあるということを理解しましょう。言葉は空間にすべてが消えていくわけではないのです。誰かの胸に突き刺さり、そのまま人を苦しませること、記録されてしまい思いもよらない事態を招くこともあるのです。